《泉 芳朗は執筆活動時のペンネームで、本名の泉 俊憲(いずみ としのり)からの改名。明治38年3月18日生まれ。》
⇒面縄尋常小学校に入学する。
⇒伊仙尋常小学校に転校し、卒業する。
⇒鹿児島第二師範学校(現鹿児島大学)を卒業する。
⇒笠利・赤木名小学校の訓導(現在の教諭職)になる。
⇒古仁屋小学校の訓導になる。
⇒母校の面縄小学校の訓導になる。
⇒昭和2年(1927年)、処女詩集「光は漏れている」を出版する。
⇒昭和3年(1928年)、詩に興味を持ち、詩人になろうと決意し東京へ。小学校教員をしながら詩作活動に励む。高村光太郎などの中央詩人と交流を深める。
⇒昭和9年(1934年)、「詩律」を刊行する。その後「モラル」に改題、さらに昭和13年(1938年)に「詩生活」に改題し刊行する。
⇒昭和14年(1939年)、体をこわして、養生にと帰郷する。
⇒完治後、再び学校の教師になろうと、当時の大島教育事務所に再雇用をお願いする。しかし訓導は無理、代用教員だったら良いということで、卒業校の伊仙小学校に勤務する。伊仙小学校校歌を作詞する。
⇒大島教育事務所の伊仙小学校訪問で、他の訓導より授業がうまい、しかも子供たちや同僚からの評判も良いという評価を受け、訓導の任命を受ける。
⇒さらに、伊仙国民学校の教頭に昇格する。
⇒神之嶺小学校の校長になる。
⇒昭和21年(1946年)、鹿児島県視学(現在の大島教育事務所指導主事)になる。
⇒奄美文芸家協会を創立し、昭和24年(1949年)に月刊誌「自由」を刊行する。
⇒昭和26年(1951年)、「奄美大島日本復帰協議会議長」に就任し、復帰運動の先頭に立つ。
⇒昭和27年(1952年)、名瀬市長に当選する。
⇒昭和28年(1953年)8月1日、芳朗は高千穂神社で120時間に亘る断食祈願に入る。これに呼応して、三方・古仁屋・住用・西方・宇検・早町等の各町村が断食決行、さらに学童たちの断食運動まで拡大する。
⇒昭和28年(1953年)12月25日、米国の占領下での集団断食等の非暴力運動で「奄美日本復帰」を勝ち取り、クリスマスプレゼント返還となる。
⇒昭和34年(1959年)、詩集刊行のための上京中に急死する。昭和34年(1959年)4月9日死去。54歳。
⇒昭和46年(1971年)建立の名瀬市おがみ山(拝山)の銅像には、今も当時の功績が刻み込まれている。
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